第三部の、老いた飼い主と老猫モンの話は、飼い犬・猫を看取った経験のある方ならこみあげてくるものがあって当然。
治療に逡巡する様、もう力もなくなってきているのに、名前を呼ぶと顔を上げ、それさえもできなくなると尻尾で応える、そんなところは自分にもあったあの日を思い出させる。
果物籠に入れて揺らしてやると喜ぶのとか、読む人をきゅ~っとさせすぎだ…。
でもこの本から感じるのはそれ以外の方が強い。
第一部で捨てられた赤ちゃん猫モンが中年夫婦の家にやってくるのだが、力なく鳴いていても、傷を負っていても、信枝はモンを捨てることしか考えない。
自分が手当をしてあげても、それでも捨てたい。
そこにはようやく授かった子どもを流産してしまったことが大きく影響しているのもわかる。
亡くした子どもの代わりに赤ちゃん猫を迎えるという図式が信枝には負担な時期だった。
しかし、「いっそ飼おうと言ってくれればいいのに」と夫の藤治に期待してみたり、捨て方や保護の仕方には嫌悪するものの、本当は信枝がどうしたいのかが伝わってくるような気がした。
第三部は、信枝に先立たれた老人藤治と老猫モンの最期。
若き獣医師が「自然なこと」と言うのを聞いて藤治はそれを支えにモンと暮らす。
何も食べずに水だけで一ヶ月以上も寝たり起きたりのモン。
それは捨てられても捨てられても信枝の家に戻ってきたのと同じだと思う。
信枝と藤治が自分を受け入れられるようになるのをモンは待っていたのだと思う。
そう気付いた時に何か見えない手で胸元を握りしめられたような、そんな感じがした。
ただそう思ってしまうと、第二部だけ異質なのですよね。
直接にモンが行雄を待っていてくれたわけではないし。
信枝が暗く深い闇を抱えていたのと、行雄のブラックホールは同じ意味だとは思うが、モンが心の準備を待っていてくれる話として読みたい私にはちょっと異質、というだけのことできらいなエピソードではない。
怪我してる子猫を捨てる、老猫のヨダレを疎ましく思う、人間の子どもを痛めつけてやりたい、そんな闇の部分がこれでもかと書かれている分、それぞれが迎え入れられたことが愛おしいのだと思う。
人や生き物に対して愛おしい気持ちがなければこんなネガティブなことは書けないだろうなとも思う。
それは私がジャック・ケッチャムを本当はいい人だと信じるのと同じかもしれない。
万人にはお勧めしないけれど、ケッチャムに対して同意見の方なら是非(笑)。
PR
COMMENT